「住みながら旅をする」ということ。そのネーミングに込めた思い。

ナイタイ高原(北海道)

父の死と鬱と旅

父の死

今からかれこれ十数年前、父が亡くなった。

 

溶接業を営んでいた父は、別に立派な父というわけでもなかったが、小さなころから海に行ったり川に行ったり山に行ったり、家族旅行が僕の楽しみだった。

18になった僕を快く雇ってくれ、溶接のイロハを教わった。

 

そんな父が僕が20代半ばの時に亡くなることになる。

三年くらいの入退院の後だった。

 

悲しくはなかった。

というと誤解を招くかもしれないが、正確に言えば悲しんではいられなかった。

会社をどうするか、借金をどうするか、葬式はどうするか‥などの実務が山のように控えていたからだ。

そして、その後どうするかというプレッシャーの中、親身になってくれる人もいて助けられ、最終的に会社をたたむことになる。

いきなり暗い話で申し訳ありません。暗い話を延々としようとするつもりはないですが、もう少しだけ付き合っていただけますか。

プチ鬱

そして父親の死の半年後、プチ鬱を経験した。

鬱

Skitterphoto / Pixabay

原因は父の死の悲しみとかではないとは言っておこう。いろいろなことが重なったからだ。極度の疲労感と不快感の中、鬱だということが分かった時、僕は考えた。

「鬱ということは、自分の限界を超えたということだ。今、自分が一番したいことは何だろう?」

10秒で答えが出た。旅がしたい。北海道に行きたい。

 

そしてその日、いつの間にか不快感は消えていた。

その半年後、八月のお盆休みの初めに、僕はひとり愛車のアルトワークスを走らせて、北海道へ向かう道の上にいた。

自分が本当にしたいことが実現するということは、これほどまでに解放感を与え清々しいものなのか!

今でもその時の感覚は覚えている。

ひとり東名高速で、北海道の苫小牧に向かうフェリーが出る福井の敦賀港に向かいながら、雄たけびを上げていた。

敦賀港からフェリーで苫小牧へ

 

今だから思うが、この僕の感覚を作り上げたものの一つは、間違いなく父が小さいころに僕をまめに連れって行ってくれた家族旅行でありお金や時間を使ってでも旅には行く価値がある という感覚は確かに僕の一部になっていたのである。

「旅」とは「新しい発見」である

「趣味は何ですか?」

北海道の旅は、僕にとって今でも財産となっている。

二週間ほどのキャンプをしながらの旅は、決して楽しいことばかりでなくある意味でのストレスを感じながらだったけれども、僕は自然の美しさに感動し、これまでの自分を振り返り、新たな発見を写真に記録した。

その時以来、僕はだれかに「趣味は何ですか?」と尋ねられると、「旅です。」と答えるようになった。

 

かといって、本当の旅人から見れば、僕が行っている旅なんて近所の散歩ぐらいのレベルだということはわかっている。

ネットにごろごろいるアフィリエイターや、何年かお金をためて世界を自転車で一周するなんていう変人超人などに比べればオコチャマみたいな旅なんだろう。

 

でも、こういうことってたぶん比較することではないし、旅は依然として僕を豊かにしている。

今でも、その後ちょうど父親が僕にしてくれたように毎年どこかに妻を旅に連れて行くようにしている。

 

「趣味」≠「旅」

しかし、しかし

四国、石垣島、宮古島、秋田、結婚したのちも、北海道、沖縄、金沢、河津・・・と振り返ってみたとき、僕にとって、厳密にいうと「趣味」=「旅」ではないような気がする。

 

いやいや、今更~、と言うかもしれないが・・・


うまく言いにくいんだけども・・・

 

妻に僕の感動を味合わせてあげたいと思って、間違いなく僕が本当に感動したところに連れて行ってあげた。そして、僕はあの場所に行けば必ず数年前に味わったあの感動をもう一度味わえるに違いない!と思っていたのである。

 

言いたいことが伝わるだろうか?

 

自分の人生を変えるような景色のその場所に妻を連れて行ってあげた時、妻は同じように感動してくれた。

しかし、僕はなぜかもう一度その感動を味わうことはできなかったのである。

 

僕の「趣味」はたぶん「旅」ではない。僕の「趣味」はたぶん「新しい発見」であり「見たことのない景色」なのである。

MabelAmber / Pixabay

 

もっと言えば、予想外だったのは、行く場所について調べすぎると感動が薄れる、ということだ。


当たり前のことだ、と言われればそれまでだが。

もっとも、ある程度までは調べることは感動につながることは分かっている。しかし・・・

調べすぎると感動は得られない

バイク乗りのバイブルであるツーリングまっぷるに書かれているいろんな人の感動を書き込んだ地図は、自分では決して発見できないような宝のありかを簡単に教えてくれる、ゲームの攻略本のような存在だった。

ただ、攻略本を使って簡単にクリアすることが好きな種類の人もいるが、攻略本をできるだけ使いたくない種類の人もいる。僕はその後者、ではないが後者に近いのだと思う。

 

特にそれを感じたのは、旭山動物園に行った時のことだ。

確かによくできた動物園だった。ペンギンが空を飛び、シロクマが水に飛び込む。でも、テレビで見たぐっさんのドラマ(知らない方はすいません)のまんまなのである。

Pexels / Pixabay

あまりにも雑誌を調べすぎると、あまりにもネットで情報を集めすぎると、おんなじことが起こる。

家でも見ることができるじゃん!ていうくらい何も変わらない模範的な“映像”が僕の前に現れ、僕を一見満足させる。

でも振り返るとそこに「感動」は現れてはくれない!

 

つまり、

 

僕の求める「旅」とは「新たな発見」であり、

「新たな発見」は決して調べすぎた美しい場所には表れてくれない

 

偶然の場所、予想外の場所、時に迷ったり焦ったり失敗したり疲れたり何も考えていなかったりした時に現れるものである、

ということだ。

 

(僕もここまで僕が感じたことをこねくり回して小難しく言うつもりはなかったんだけど、誰かが理解してくれるかもしれないという希望を抱いてこのまま載せます。)

「住みながら旅をする」

geralt / Pixabay

このように考えてみたとき、僕に一つの考えが浮かんだ。

「趣味」=「旅」ではなく、「趣味」=「新たな発見」であるのなら、気持ちの持ち方を変えるだけで あの北海道に行くときに感じた感動と雄たけびを、毎日感じることができることが出来るのではないか?という考えである。

 

 

どちらかというと、僕は場所にばかりに気を取られていた。

 

だけど今住んでいる隣の町にも全然知らない発見があり、予想外の出来事が待っているに違いない。

もしかすると、僕が意識していないだけで、そんなことはごろごろしているのかもしれない。

そんな風に毎日を感動しながら生活することだってできるはずだ!

uniquedesign52 / Pixabay

 

 

これが、僕がこのブログの名前に込めた思いです。

長く読んでいただいたことに感謝します。

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東京に住もうと思っているけど、地震があったらどうなるだろうと不安な人も多いはず。僕もそうでした。東京は地震に耐えられるのか… 実際に住んでみた感想と、3.11の実体験が少しでも参考になればと思います。

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